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晩秋の東九州(7)
恩讐の彼方に(3)
(3)仏門に入り大誓願
二十里に余る道を、市九郎は、山野の別なく唯一息に馳せて、明くる日の昼下り、美濃国の大垣在の浄願寺に駆け込んだ。彼は、最初からこの寺を志してきたのではない。彼の遁走の中途、偶然この寺の前に出た時、彼の惑乱した懺悔の心は、ふと宗教的な光明にすがってみたいという気になったのである。
浄願寺は、美濃一円真言宗の僧録であった。市九郎は、現往明遍大徳衲の袖に縋って、懺悔のまことをいたしたい。上人はさすがに、この極重悪人をも捨てなかった。市九郎が有司の下に自首しようかというのを止めて、
「重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木(きょうぼく)に晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱(くげん)を受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」と、教化した。
市九郎は上人の言葉をきいてまたさらに懺悔の火に心を爛らせて、当座に出家の志を定めた。彼は上人の手によって得度して了海と法名を呼ばれ、ひたすら仏道修行に肝胆を砕いたが、道心勇猛のために、わずか半年に足らぬ修行に、行業は氷霜よりも皓く、朝には三密の行法を凝らし、夕には秘密念仏の安座を離れず、二行彬々として豁然智度の心萌し天晴れの知識となりすました。彼は自分の道心が定まってもう動かないのを自覚すると師の坊の許しを得て諸人救済の大願を起し、諸国雲水の旅に出たのであった。
美濃の国を後にしてまず京洛の地を志した。彼は幾人もの人を殺しながら、たとえ僧形の姿なりとも自分が生き永らえているのが心苦しかった。諸人のため、身を粉々に砕いて自分の罪障の万分の一をも償いたいと思っていた。ことに自分が木曾山中にあって行人をなやませたことを思うと道中の人々に対して償い切れぬ負担を持っているように思われた。
行住座臥にも人のためを思わぬことはなかった。道路に難渋の人を見ると彼は手を引き、腰を押して、その道中を助けた。病に苦しむ老幼を負って数里に余る道を遠しとしなかったこともあった。本街道を離れた村道の橋でも破壊されている時は、彼は自ら山に入って、木を切り、石を運んで修繕した。道の崩れたのを見れば土砂を運び来って繕った。かくして、畿内から中国を通して、ひたすら善根を積むことに腐心したが、身に重なれる罪は、空よりも高く積む善根は土地よりも低きを思うと、彼は今更に半生の悪業の深きを悲しんだ。市九郎は些細な善根によって自分の極悪が償いきれぬことを知って心を暗うした。逆旅の寝覚めにはかかる頼母しからぬ報償をしながら、なお生を貪っていることがはなはだ腑甲斐ないように思われて自ら殺したいと思ったことさえあった。が、そのたびごとに不退転の勇を翻し諸人救済の大業をなすべき機縁のいたらぬことを祈念した。
享保九年の秋であった。彼は、赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺に詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ道を山国川の渓谷に添って辿った。
筑紫の秋は駅路の宿りごとに更けて雑木の森には櫨赤く爛れ、野には稲黄色く稔り、農家の軒にはこの辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。
それは八月に入って間もないある日であった。彼は秋の朝の光の輝く山国川の清冽な流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃樋田の駅に着いた。淋しい駅で昼食の斎にありついた後、再び山国谷に添うて南を指した。樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて火山岩の河岸を伝って走っていた。歩みがたい石高道を市九郎は杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばにこの辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。
市九郎が近づくと、その中の一人は早くも市九郎の姿を見つけて、
「これはよいところへ来られた。非業の死を遂げた哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向をして下され」といった。
非業の死だときいた時、剽賊のためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に両脚の竦むのをおぼえた。
「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのはいかがした子細じゃ」と、市九郎は、恐る恐るきいた。
「御出家は旅の人と見えてご存じあるまいがこの川を半町も上れば鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所で南北往来の人馬がことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子じゃが、今朝鎖渡しの中途で馬が狂うたため五丈に近いところを真っ逆様に落ちて見られる通りの無残な最期じゃ」と、その中の一人がいった。
「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」と、市九郎は、死骸を見守りながら打ちしめってきいた。
「一年に三、四人、多ければ十人も思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨に桟が朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。
市九郎はこの不幸な遭難者に一遍の経を読むと足を早めてその鎖渡しへと急いだ。 そこまでは、もう一町もなかった。見ると、川の左に聳える荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざした襞の多い肌を露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたようにここに慕い寄って絶壁の裾を洗いながら濃緑の色を湛えて渦巻いている。
里人らが鎖渡しといったのはこれだろうと彼は思った。道はその絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が危げに伝っている。かよわい婦女子でなくとも俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心戦くも理りであった。
市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めてようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然として萌した。
積むべき贖罪のあまりに小さかった彼は自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。今目前に行人が艱難し一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。二百余間に余る絶壁を掘貫いて道を通じようという不敵な誓願が彼の心に浮かんできたのである。
市九郎は自分が求め歩いたものがようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば十年には百人、百年、千年と経つうちには千万の人の命を救うことができると思ったのである。
こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。その日から、羅漢寺の宿坊に宿りながら、山国川に添うた村々を勧化して、隧道開鑿の大業の寄進を求めた。
が、何人もこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。
「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人じゃ、はははは」と、嗤うものは、まだよかった。「大騙りじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」と、中には市九郎の勧説に、迫害を加うる者さえあった。
続く
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